牧歌組合~45歳からの海外ミュージシャン生活:世界ツアーに向けて~ -2ページ目

【連載最終話】これでいいのだ

明日(4月3日)、ブエノスアイレスに向かう。最近、眠れない夜が続く。
「マサタカ、アルゼンチン行きで、緊張してるでしょ?」とエステルがメッセージをくれた。
うん。まじでそう。正直、ものすごく緊張している。25年の憧れの土地への旅の前だ。なんだかソワソワしてて、何も手につかない。アタマがとても喧しい。アタマのなかで蛇がのたうち回るような感覚(『Zガンダム』フォウ)ではなくて、約100ミリ秒間隔で、アタマのなかで色んなシャボン玉が発生しては、プチプチと潰れていくみたい。集中力と生産性、超下降ぎみ。やばい。日本語で文章を書くと、ちょっと落ち着く。

ベルリンに戻ってきたら桜を見ながら花見をしようと、エステルと約束した。だから、ベルリンに戻ってくる。”エステル・シュヴァルツロック”は僕が戻れる大事な場所だから。
タンゴ・コントラバスの師匠、エルナン夫妻がブエノスアイレスでの住居を用意してくれた。おそらく練習場所にもWLANにも困らない。エルナン経由で現地でのレッスン・スケジュールを調整中。新しい技術を身につける学習と練習と試行錯誤ほど、マサタカにとって楽しいことはない。
ブエノスアイレスでは、タトーが用意してくれる別のコントラバスを弾く。その間、ベルリンで使っている楽器をメンテナンスに出そうと考えていたら、ユーディット(彼女はバイオリンマイスターでもあり、バイオリンを自作する!)から紹介されたコントラバス・マイスターのアラインが先週末、無料でコントラバスの駒周辺を最適化してくれた。その後、コントラバス練習(自主トレ)が、非常に気持ちいい。
ルフトハンザ航空のストライキにより、ガブリエルは、到着が約2日遅れるかも、と心配している。日本から仕事をくれている仲間は、変則勤務を許してくれた。感謝。サディスチック巫女バンド(仮)の仲間、カツが荷物を預かってくれた。感謝。
なんだか、Zガンダムで、地球と宇宙を往き来する登場人物たちのような、緊張の生活。

これが、連載第1クールの主要登場人物たちと、マサタカの日常生活の一コマ。
ヒトによって日常生活は様々。生活に定型なんてない。上下も無い。サザエさん、天才バカボン、ドラえもんで描かれる日常生活。エヴァンゲリオン最終話で碇シンジが夢見たような”平和な”日常生活。N人のヒト=登場人物の日常生活風景は、N種類ある。幸せな日常生活かもしれないし、不幸せかもしれない。まったりしているかもしれないし、波瀾万丈かもしれない。東大卒の生活も、中卒の生活も、ミュージシャンの生活も、公務員の生活もN個の生活のひとつに過ぎない。そして、それらは、N人のヒトの”戻れる場所”という意味において、何の優劣も無い。そこに優劣があると考えるのが、戦争の発想であり、ナチスの発想だ。このことを身にしみて理解するまで、マサタカには非常に長い時間が必要だった。そのN個の日常生活のひとつ、マサタカの日常生活において、ベルリン生活の第一章が完結する。


古畑任三郎が言うように、旅は本当にいいものだ。
旅の前の物語と言えば、ベルリンに旅立つまえの2012年11月末、大阪梅田の地下(サンチカ)の飲屋街。その一年前(2011年10月)からのマサタカの生活で起こったこと、離婚したこと、元家族と離れて一人暮らししていること、大企業は離れヴェンチャー会社で転々としながら働いていること、ベルリンに行こうと考えていること。マサタカは、全てを母や父、弟に隠していた。大学中退や売れないミュージシャン生活などなど、過去これでもかと心配させすぎてきたのに、これ以上の心配をかけてはならない、と考えたためだ。でも、さすがに移住前には家族には打ち明けなければならないと思い、これまでの経緯をほぼ知っている中学校からの友人、岡本に同席してもらって、まず弟に打ち明けた。その飲み会の前、岡本は「おいおい、えらい大変な役割を俺に押し付けるな~」と苦笑い。


マサタカの告白に対して、「うわ~~!!!」「おいおい、転職だけじゃなくてまだあんのか?」「え、ええーっ???」「子供とも会われへんのか。。」ただただ驚く弟。ビンチ。そのとき岡本は、弟に対して、このようなことを、言ってくれた。
「もう知り合ってから30年以上、こいつと付き合ってきた。こいつは本当にむちゃくちゃで最低最悪な人間かもしれないが、俺はこいつほど『勉強ができる』人間を見たことが無い(もしかしたら『勉強が大好きな奴』か『アタマがいい』だったかもしれない。記憶はゆらぐ)。長年みていると、色々な転身を繰り返してきたが、どんな状況にあっても、こいつは新しい環境のなかで、持ち前の勉強能力で新しいモノを学習して吸収し、それで自分を変化させて、確実に結果として何かを創り出して生き続けてきている。これだけは事実だ。一緒に働いたことはないが、たぶん仕事もものすごくできるのだろう。ムラは激しいし、いつもコロコロ姿を変えるから、信用できないかもしれないが、こいつなら、外国に行ってもなんとかやっていけると俺は思う」。

嬉しかった。とても感動的だった。その友の援護射撃が決め手となった。その飲み会のあと、弟は「がんばれ」とメールをくれた(過去のFacebook参照)。

その次の週、神戸の実家に行き、弟同席のもと、母にすべてを打ち明けた。今度は弟が、岡本と同じような、絶妙な援護射撃をする番だった。マサタカの生活を認め、母を説得してくれた。とても感動的だった。今でも涙がでる。この岡本と弟(ミツトシ)の深い理解と許容のおかげで、マサタカは旅立ち、また何か新しい環境に飛び込んでいくことができたのである。

自己を変化させて、既存の関係を超えていく、世界の破壊者(仮面ライダーディケイド)。
マサタカには、エヴァンゲリオンの第11使徒イロウル (IREUL)みたいな才能があるのは、たぶん事実だ。「自らの弱点となるものに遭遇しても、環境に適応するために異常な速度で自己進化、全体としての生存を図る特性を持つ」(Wikipediaより引用)。
だが、長所と短所は裏返しとよく言う。本当にそうだ。進化しすぎたイロウルは自殺を選択した。「学習能力が高く、自分を進化させる能力に優れた」マサタカは、反面「考えが急速に変わる」「Aと言ってたが急にBに変わっている」「音楽評論家と言っていたのに急に音楽家になった」「言ったことに責任感が無い」身元不明な信用できない人間でもある。だから当然、出会いの機会も多ければ、別れの機会も非常に多い。

元妻はマサタカに言った。「あんたは、本当に、”わらしべ長者”みたいな奴だ。でもとても飽きっぽく、ケンカ狂だから長者にはなれない」。
東大時代の友人山口は言った。「こいつはいつも、それまで持っていたモノをすべて捨ててゼロにして、次へ行こうとする」。
ヤフーの上長H氏はマサタカに言った。「君には突破口としての攻めしかない。守りが全くない。運用には向かないタイプだよね」。
すべて的確にマサタカの長所と短所を描いている。


そして。この物語の第一話、新たな転身の開始地点となった”彼女”からのメールにはこう書かれていたのであった。
「あなたが今の関係を超えていこうとするならば、友達ではない」。
変化を繰り返すマサタカは、他人の日常生活の境界線を破壊する怪人、危険な存在と、あるヒトの瞳に映ることもある。何度、そう受け取られて、ヒトと別れ、泣いただろうか。個性は両刃の剣。


だが、その”彼女”のメールからマサタカはミュージシャンとして再生し、45歳からのベルリン音楽生活が始まった。壊れるものがあったとしても、それは仕方ない。悲しいかな、たぶん、一点に停まる才能に決定的に欠けているのだ、こいつは。アナキスト的、全ての破壊者のように見えることもある彼は、宮沢賢治の言葉、「小さな椅子にこしかけて、ふんぞり返って生きている人間にだけは絶対になりたくない」(不正確な引用)の信望者だから。そのために新しいヒトとも出会うだろうし、そのせいで別れることも傷つくこともあるが、しかたないのだろう。

これがマサタカの生活。これでいいのだ。飛行機内で、ぐっすり眠れるといいな、せめて人間らしく。
(完)



世界の破壊者、マサタカの瞳は、ブエノスアイレスで何を見る??
『Ζ45歳からの音楽生活:ブエノスアイレス編』につづく!!!


http://laberlinga.com/

【連載11】言葉の壁とアンサンブル、専門用語とデザインパターン

最初の授業では、他の人が話すドイツ語を1ミリも聴き取れなかったので、眼の前が真っ暗になった。

ベルリンでの生活を始めた僕は、昨年(2013年)1月、例外に漏れずドイツ語学校に通い始めた。B2クラスからのスタート。7つある(たぶん)クラスのうち、上から3番目。概ねドイツの大学に入学できるレベルの語学力がある人々が集う上位クラス。持ち前の情熱で、渡独前に日本で手に入るドイツ語の参考書、ドリルはほぼ(90%)勉強ずみだった。入学のときのレベル検査は筆記式で、文法に関する知識チェックだけなので、比較的高い得点が取れたため、上位クラスでのスタートとなったわけ。

だが、実際にドイツ語を使って会話をした経験はゼロに近い。他のクラスメートは、フランス、ポルトガル、イタリア、ロシア等などからのヨーロッパ人ばかりで、みんな3年くらいはドイツ語を勉強してきていて、文法など気にせず、自分の言いたいことをスラスラと喋る。最初の授業で、これらの会話を1ミリも聴き取れない。「マサタカ、どう思う?」と訊かれて、全く見当はずれな回答をして、みんな一瞬「?????」って顔をしてから、大笑い。しかし教師クリストフは言ってくれた。
「君は、クラスの重要人物だ。マサタカが喋るとみんな笑う」。
彼との交流が始まる。おいおい書くと思うが、彼は、ドイツにおける僕の最大の恩師で友人。昨年の「マサタカ保育園」崩壊後、彼は僕の壊れそうな心を誰よりも支えてくれた。

どうやらいつも、意識しているにせよ、無意識にせよ僕はリアクションが滑稽らしい。別にこれは、多少ドイツ語でコミュニケーションがとれるようになった今でも、同じ。エステル・シュヴァルツロックのチェロ奏者、フランチスカが言う。
「お客さんがマサタカを見ているとき、みんな笑顔になっている。あなたには、コメディアンとしての才能があるわ!」
いやいや、本人は一生懸命、上手いなあ~と思ってもらえるように演奏しているんですけど。。。ただのリアクション芸人? この滑稽なキャラクターは多分、母からの遺伝なのだろう。まあ、損することもあるかもしれないが、トクになっていることも多いと思うので、母に感謝。

語学でのコミュニケーションと、音楽におけるアンサンブルは似ている。
他人が出している音、言葉を聴き、理解しつつ、その場で求められている最適な反応としての音、言葉を返却し、そのN対Nのキャッチボールで、楽しい時間と空間を編み上げていく、という点で。

そして、コミュニケーションが上手くいかないケースも、会話とアンサンブルは同じ。
演奏者が出す音と、その音楽が必要としている音、バンドメンバーが求めている音がマッチしたら、幸せ。いつもそうなら、幸せなのであるが、そうでないときも多い。タンゴバンド、「ラ・ベルリンガ」に参加した昨年末、ガブリエルとタトーから
「¡ここのリズムは、シンコパで!」
「¡最後の決めの手前でストラパータを!」
「¡ここは力強く、ストラパータとカホ!」
「¡ここはマルカートじゃない!」
などの指示が飛んだが、当初は「¿¿¿¿¿?????」って顔しか出来なかった。また、眼の前が真っ暗になった。

シンコパは、前にも書いたが、1小節内で、弓弾きと指弾きを瞬時で弾き分ける技術。
ストラパータは、弓を弦の上でぴょんぴょんとバウンスさせた音を出した直後、瞬時に左手でミュート&指板を打つ音を入れる技術。
カホは、左手でコントラバスの胴の裏を叩いて、バスドラのような音を出す技術。
マルカートは、タンゴ特有の手首のスナップを回転させた切れ味鋭い下げ弓。

タンゴのコントラバス奏法特有の、一見ニッチな技術であるが、バンドにおける音楽の生産性(お互いに素早くイメージを伝えて、”いい音楽”という成果物を造り上げて行く)において、それらは重要な言葉=ボキャブラリー=専門用語=合い言葉となる。そういう意味で、これらのニッチな技術は、オブジェクト指向開発おけるデザインパターンや、ERモデルの設計パターンに近いのかもしれない。
「ここはファクトリーで!」「このデータ管理は親子構造で!!」みたいな合い言葉のキャッチボールで、リズミカルに開発が進む。長過ぎる説明、過剰な言葉はヒトを退屈にさせるから。いや、システム開発現場にとどまらず、一店舗の店の運営、会社の経営、家庭における営み、ひいては全てのコミュニケーションは、いかに、お互いにストレスをあまり与えず、スピーディーにイメージを伝え合い、楽しみながらノリのある創造活動が行えるかにかかっていると思う。

そのために、求められている要件を即座に理解する。そして瞬時に、「そうそう、それ!」と仲間が要求しているモノを返却する。
外国語会話なら、質問に対する最適な返答内容と、それを伝えられるだけの発音力。
開発現場なら、最適な設計、そしてそれを結果として出せるだけの実装力、技術力。
アンサンブルなら、最適なリズムと音程と、フィーリング、そしてそれを伝えられるだけの技術力。
そのためには、一定の技術、それを体得するための訓練と努力が必須となる。


ドイツ語の恩師、クリストフは言った。「”聴く”と”話す”は一緒。マサタカは今、ドイツ語にあって日本語にない発音技術の違いをマスターしていないから、たびたび聴き取れてないし、話しても聞き手に伝えられていない。これを克服しよう!」。特に、「b」と「w」の発音の違い。「r」と「l」の発音の違い。「f」と「h」の発音の違い、「ä」と「a」、「ü」と「u」などなど沢山。そして、クリストフは、「騙されたと思って、以下の文章を毎日、最低30回ほど、練習しよう」と言った。一例は、

Ich habe ein Bad ohne Badewanne.
(僕のバスルームには浴槽は無い)

「b」と「w」の発音の違いを、瞬時で表現するための訓練だ。かつ、元ロッカーの彼の作る作文には、温泉大好き、浴槽大好きな外国に住む日本人(=僕)の寂しい心情を代弁し、それをパンクの歌詞のような領域にまで止揚するセンスがある。練習していても、特に悲壮感がない。低ストレス。だから、クリストフは、僕の好きな先生♬。

この訓練を2ヶ月くらいしつこく繰り返した後くらいから、ドイツ語でのコミュニケーションがましになったと思う。例えば、手塚治虫の名作漫画、「きりひと讃歌」。日本語版だと、”日本語が上手に喋れていない中国人”が描かれるとき、彼らの吹き出しには、「ソレ、〇〇アルネ」と書かれている。ドイツ語に翻訳された「きりひと讃歌」でこの箇所は、母国語が日本語に変わりドイツ語、そこから見た”外国人が喋るへたくそなドイツ語”になるのであるが、「r」であるべき箇所が全て、「l」、「w」であるべき箇所が全て「b」に変えられて、翻訳されている。この翻訳家はセンスがいいと思った。ベルリンに1年以上暮らしているのに、ドイツ語での会話がスムーズにできないという日本人、外国人は多い。そしてそういう人たちの発音には、得てしてこれらの点に難がある。そしてその問題を克服するための訓練も行っていないから、なかなか伝わらないだけなのだ。地道な訓練は本当に大事。

タンゴコントラバス奏法の訓練。幸運なことに、今年(2014年)1月、デビューとほぼ同時に、そのとき来独していたアルゼンチン国立オーケストラのコントラバス奏者で、タンゴの音楽活動経験も長い、エルナン・マイサ氏と出会え、レッスンを受け、訓練したおかげで、今は「¿¿¿¿¿?????」って顔しか出来なかったころよりは進歩していると思う。彼は、無償でそれらの技術を教えてくれた。2月末、彼がアルゼンチンに帰国する朝、会いに行った。
マサタカ「¡こんな機会は本当に無かったと思います! ¡本当に感謝しています! ¡本当にありがとうございました!」
エルナン「¡とにかく、マサは、なんだか面白いから!」
日本語を喋れる彼の、絶妙の返答である。僕の好きな先生。


アンサンブルとコミュニケーション。
エステル・シュヴァルツロックのリーダー、エステルの基本はクラッシック音楽。教会のオルガン弾き、バッハのカンタータを歌うことなどで生計を成り立たせ、自分自身の音楽活動も行っている。旧東ドイツ、ドレスデン出身の彼女は、どちらかというと(いい意味で(笑))非常に気が強いタイプ。情熱的。リハーサル中も、音楽が彼女のイメージどおりにならないとき、結構キツい口調で指示がメンバーに飛ぶ。昨年末(2013年12月)、バンドに参加したばかりのとき、これが多少辛くなり、リハ中に疲れた表情を僕は見せたのだろう。彼女は僕のその表情をしげしげと見て、

エステル「。。。私とのリハーサルって、きつい?」
この質問自体が非常にダイレクトで、彼女らしい(笑)。約5000ミリ秒考えてから、
マサタカ「いや、楽しくない訳じゃなくて、僕は、所詮一年くらいしかドイツで生活していないので、しばしば言葉がわからない。早口でいきなり指示されても理解できない。アタマが真っ白になる。音楽用語は専門用語だし。だから、ちょっと辛くなる」

その次のリハーサルのとき、エステルは一枚の手書きのノートを僕にくれた。そのノートには、ドイツ語の音楽用語と、(日本で一般的に使われる)ラテン語の音楽用語の対応表がびっしり記されていた。

こんなキャッチボールの現場から、コミュニケーションが進む。音楽等が創られていく。

(つづく)

【連載10】「情熱もって生きている」(¡Vivo, con passione!)

世界の中心でアイを叫んだけもの。ベルリンでIch乃至Liebeを叫ぶ小物。45歳から自分の夢を追いかける碇シンジ。「永遠の中二病」という病を直す処方箋は何か? たぶん、「情熱もって生きている」("¡Vivo, con passione!", "Mit Leidenschaft lebe ich!" )と胸をはって言うことだと、親友O君の助言で、今日思った。

ピアソラのコントラバス独奏曲「キチョ」を練習中。やっぱり難しい。難しいフレーズをクリアできないとどうしても落ち込み、自分を卑下してしまう。僕は天性の音楽的才能にも恵まれていない、3歳くらいからベースを弾くような音楽的環境にも恵まれなかった、などの無い物ねだりループ。それは時間の無いものねだりに続く。「こうやりたい」という計画もしばしば日常でやらなければならないことが一杯で上手に回らない。日本の元家族の住居へのローン返済、そのためのエンジニアとしての仕事、ベルリンでの生活環境の改善などなど、正直、心配ことばかり。エンジニアとしての自分、父としての自分、音楽家としての自分の狭間で、いつも時間配分に追われてばかり。正直、色々難しい。

そして、他人への無いものねだり。自分の運命が上手くまわらないとき、他人のせいにする。他人を小物と見なして、「あいつが小物だから、自分も損をするんだ」とか考えてしまう。そして、見たことも無い、あったことも無い”大物”(=神)を待ち望む。

だが、それでいいのか? 何故、ベストを尽くさないのか?

僕を使ってくれる音楽家、仕事の仲間たちがいる。ライブを聴きにきてくれる人たちがいる。少なくとも絶対に、彼女ら、彼らを失望させてはいけない。 僕に今すぐできる、ベストを尽くすということはなんであるか。

よく師匠は言っていた。
「ベースは、グルーブの要。だから、他のメンバーから出している音を聴いてもらえるか、信頼してもらえるかにかかっている。完全な負け試合(他のメンバーもやる気なくガタガタ、マネジメントも上手でなく、お客さんも引いている等など)のライブでも、ベース奏者は、ゴールキーパーであるにもかかわらず、ゴールを決めに行かなければならないときがある。たった一人でも、無理矢理、敵陣に突っ込んでいってゴールを決めようとする気合いが必要になる。」
多分それがグルーブだ。

大物小物。小物が嫌い、と言っている奴(=僕)は小物だ。

ミンガスは自伝『負け犬の下で』でこう書いた。
「僕はベースが上手に弾けるようになったら、誰よりも大きく堂々と胸を張ってステージに立って弾くんだ。トロイラ、トロイラ~♩」(引用ですが、手元に当該書籍が無いため、本人の朧げな記憶で書いています)

19歳の僕も同じことを考えていた。その初心を思い出したら、なんだか泣けてきた。45歳になって、今僕は何かをやっと見つけたかもしれない。

少なくとも僕は「情熱もって生きている」と胸を張って言える。そうだ、言おう。それが伝わるような音を出そう。仕事をしよう。これでいいのだ。
(つづく)

【連載9】負け犬の下で

タンゴバンド「ラ・ベルリンガ」でレコーディングがいよいよ始まる。来週ブレーメン、4月ブエノスアイレスにて。

「各メンバーそれぞれ一曲、ソロ演奏を録音しよう」という話になっていて、僕は、アストラ・ピアソラの楽曲「キチョ」を録音しようと思って、ギタリスト、ガブリエルと練習を始めている。ピアソラがベーシスト、キチョ・ディアスのために書き下ろしたコントラバスのリード曲。思えばコントラバスを手にして約25年、ほぼ毎日この曲を練習レパートリーに入れて練習してきているから、いざ録音、となると深い深い感慨がある。そして、なるべくいい演奏がしたいと気合も入るし、へたくそな箇所の不安もあって緊張する。

「キチョ」はこん↓な曲。様々な名手が、様々な解釈でこの曲を演奏しているが、この音楽学校での発表会での彼女の朴訥とした演奏に僕は好感が持てる。

上の動画だと、1分17秒から始まるコントラバスが歌う部分(カンタービレ)で僕はいつも泣きそうになる。

ベルリンでタンゴバンドに参加し、最低でも週に一回、人前でタンゴを演奏しているのだが、実際”プロのタンゴベーシスト”としての活動のなか、タンゴのフィーリングを出せているのか分からなくて悩む。日本人である自分と、地元アルゼンチン人の文化的素養の差。聴きにきてくれたヒトから、「マサの『Marrón y azul』でのアドリブはジャズだ。タンゴの演奏じゃない」、「マサはジャズが好きなんでしょ?」とかたまに言われる。特にソレを意識して演奏しているわけではないのだが。。。。そして、自分のルーツとなる音楽は一体何なのか、カラダに染み付いたビートは何なのか、悩む。

僕にとってのジャズ。最初のベースのヒーローはチャールズ・ミンガスだった。ミンガスみたいになりたくて、コントラバスを始めた。ミンガスに興味を持ったのは、高校生時代に英国のトラッドバンド、ペンタングルのライブ盤『スウィート・チャイルド』を聴いたときから。この中で、ペンタングルの優秀なコントラバス奏者、ダニー・トンプソン(大好き!)がミンガスの「ハイチ人の戦いの歌」をソロ演奏するのであるが、聴いた瞬間、このベースリフがアタマのなかを即座に占拠した。

このリフは未だに僕の毎日の練習レパートリー入りをして、僕のアタマのなかを占拠している。「ジャズの巨人」として一見”大成功”したヒトのはずなのに、彼の自伝のタイトルは「負け犬の下で」。常に自分を「負け犬」と自己評価し、とてつもなく強烈な音楽を創り上げた。僕はその姿勢を尊敬している。大好きだ。

次のヒーローは、アルゼンチン・タンゴのコントラバス名手、キチョ・ディアス。録音予定のキチョのフレーズ全部が僕のアタマを24年間、占拠。

そして、ジョン・コルトレーン・カルテットのジミーギャリソン。師匠(松永さん)から「お前の音って、純粋で朴訥~としてて、ジミー・ギャリソンに似てるよな」と言われてから、好きになってしまった。よい意味で純粋、悪い意味で、阿呆の音、ということ(笑)。教え上手なヒトは褒め言葉(=批評、レビュー)が非常に巧く、真を突いている。自分がプレーヤーとして、「満場一致の拍手!」を戴くような才能を持っているとは決して思っていないし、それを求められるだけの理由(そこまで一生をコントラバスに捧げていない)も無いと思っているので、こういう、褒め言葉とも貶し言葉とも分からない感想、っていうのがコントラバスを続ける機動力、そして生きる喜びになっている。人間、多くを求めないほうが幸せに生きれる。

たった一度、町田康さんが昔のバンド、牧歌組合のライブを見にきてくれたときに、アンケートに
「小塚くんのベースはロックだ」と一筆書いてくれた。ロック精神を常に持った1ミュージシャンとしては最大の褒め言葉で嬉しいのだが、普通のベース奏者なら持っているはずのジャジーなフィーリング(色気)が全く無い、ということ。松永師匠にその話をして「どうやったらジャズっぽいフィーリングが出るんですかね?」と相談したら、レイ・ブラウンとデューク・エリントンがデュオで演奏している「昔はよかったね」のフレーズを教えてくれた。次の日からこの曲も毎日の練習レパートリー入りし、21年間僕のアタマを占拠している。

きわどい褒め言葉。今年、タンゴ奏法を教えてくれたアルゼンチンのコントラバス奏者、エルナンは厳しい指導と同時に、たまに「マサ、なんでそんなにいい音が出せるの?」と褒めてくれた。エステル・シュヴァルツロックのバンドのリハで、僕の演奏に対して、エステルやユーディット、フランチスカが「super geil!!」と褒めてくれるととても嬉しい。それらのちょっとした褒め言葉が、僕にとっての何よりも嬉しい生きる原動力。これらの言葉を大切にしながら、”負け犬の下”で生きるのが僕の人生なのだろう。

若い頃はプロのミュージシャンとしての”成功”を求め、多分、見えない敵と闘っていた。そんなとき、自分のバンドに参加してくれた塚本くんがこう言った。「それは結果だろ。とりあえずたった一つのフレーズのプロになることを考えようよ」

僕はいま、「キチョ」のフレーズのプロになりたい。
(つづく)

【連載8】せめて人間らしく

「マサタカ保育園」解体後の個人的に重い引っ越し疲れのせいか、マサタカ(筆者)はかなり重い風邪をひいてしまった。海外ベルリンでの一人暮らし、自炊も疲れるので今日は近所のケバブ・ショップで夕食。たった一人の晩餐はとても寂しい。

風邪をこじらせてしまったのは、先週土曜日(2014年3月8日)、参加しているバンド、エステル・シュヴァルツロックのライブ後、バイオリン奏者のユーディット、リーダーのエステル、バンドネオン奏者のタトーと、午前3時くらいまで、わいわい、店のオーナー、ターノから振る舞われた熱々のエンパナーダを一緒に食べ、飲みながら、だらだら喋っていたせいだ。「日本音楽バンド(サディスティク巫女バンド)でドイツ老人ホームで演奏する際、どんなドイツ語の楽曲をレパートリーに入れたら、確実にドイツ老婦人の心をつかめるか?」「ヨーロッパ諸国を日本人は、漢字でどのように書くか? かつドイツは何故、”独逸”なのか?なぜそうなったのか?」「マサタカは漫画を描くのが上手いが、私たちを描いたらどうなるか?」。主にこの議題でだらだら約3時間の晩餐。ライブ後の、バンド仲間と一緒の晩餐はめっちゃくちゃ楽しい。

ベルリンでの音楽活動は自腹を切らなくてよい。それどころか、自分だけが生活していくための生活費くらいなら、ギャラでなんとか稼げる。コンサートの回数が多い月は。これは日本と大きく違う。

東京で”売れない”ミュージシャンが、音楽活動を始めた場合、まず最初に「ライブハウスのノルマクリア」という壁にぶち当たる。3バンド共演のライブならば、おおよそ入場料1500円として最低10人分=15000円をライブハウスに納める必要がある。1バンドでの単独ライブならば、最低でも4~5万円のノルマ。そのノルマをクリアした場合、かなりのマージンをお店が持って行くかたちで、なけなしのギャラがミュージシャンに対して支払われる。”売れない”ミュージシャンはお金を大抵持っていないから、これが音楽創作活動およびバンド営業戦略において大きな障壁となる。加えて、スタジオでの練習費用などを加えると、バンドに取って金銭やりくりが大きな課題となり、お金を払ってライブをさせてもらう、みたいな、本来、素晴らしいものであるべき芸術活動が、卑屈なスピリットに成り下がってしまう傾向にある。そして、大抵、お店でのオーダーに対してもお金を払わなければならない。

これはヨーロッパと日本の文化観の決定的な違いなのだろうか? 音楽の生活への根付き方の違いなのだろうか? ベルリン(海外での音楽活動を筆者はベルリンしか知らないが)では、ミュージシャンがお店でのオーダーにお金を払う必要はない。カフェ、レストランでの演奏であれば、食事もつく。もちろん、投げ銭制にせよ、チケット制にせよ、基本お客さんからミュージシャンに対して支払われたお金は、ミュージシャンのものとなる。大きなマージンで。だから僕は、ライブがある日は基本的に、何も食べず、前日はお酒も飲まず、お金を持たずライブ会場へ行く。週2~4回ライブがあれば、家での禁酒が成功しそうな勢いだ。健康にも多分いい。一つのライブを楽しいものにするために、お店の人々、ミュージシャンが、親密に、人間として尊重し合う時間を過ごす。あたかも家族のように。だからライブ後の、バンド仲間と一緒の晩餐はめっちゃくちゃ楽しいのだ。


2000年から日本のサラリーマンになって、約12年続けたが、家族を含め、他人と楽しく晩餐を取った時間の記憶が乏しい。平日は大抵遅くまで働いて、23:00~26:00くらいに帰宅して、一人寂しく冷めた夕食を、お酒を飲みながら食べる。子供がまだ幼かった頃は、土日祝日くらいは、家族全員での晩餐ができた。だが、子供たちが思春期に入るとその機会も減って行く。思えば、離婚前の5年間、土日祝日でも家族全員での食事というのは、数えるほどしかなかったのかもしれない。人間らしくない環境。家にいる時間が限りなく少ない。

何故、日本のミュージシャンたちにはノルマが嫁せられるのか? 東京は地価が高く、家賃が高い。ベルリンでは同じ家賃で約10倍の広いアパートを借りることが出来る。多分、一部の利に聡い日本人が”なんやかんや”して、不動産の値段が非常に高くなってしまった。当然、ライブハウスの家賃も高い。ライブハウスを経営して行くために、その家賃および運営費を支払うために、客が来ようと来まいと、一日あたり最低でも必要とするお金がある。かつ、日本人はクソ真面目だ。どんなライブハウスもドラムセット、ベースアンプ、ギターアンプを購入維持しているし、音響効果や照明などスタッフを多く抱えている。客が来なく、また、ドラマーが居ないバンドのライブのとき、ドラムセットとスタッフは手持ち無沙汰に佇んでいる。これらの維持費、人件費も含めて、オーナーはライブハウスを経営しなければならない。そのために、どうしてもミュージシャンへの「ノルマ」が必要となる。当然、ミュージシャンに対して無料で美味しい料理やお酒は振る舞われないから、東京のミュージシャンはライブ前後、マクドナルドか和民に集い、(なんとなく)寂しく侘しい食事をする。

一部の利に聡い奴、ミュージシャン含め、みんな幸せになろうとしているのに、それらの営みが協調せず意図しなかった計算狂い(バグ)を発生させ、みんなを不幸にして、人間らしくない生活を強要する。僕の日本の印象は、一言で言うとそれ。


ベルリンのライブハウス(カフェ、バー、レストラン含め生演奏が聴ける環境)では、比較的安めな家賃もあるだろうし、音響設備は基本「必要としているミュージシャン自身が持ち込む!」ルールが徹底しているから、無駄(なときもある)な運営費は発生せず、かつスタッフ数も格段に少ない。というか、ミュージシャンがスタッフの一員として協力する(僕も率先してやってます!)。GNP的にみても、日本とドイツは、他の国に比べ、優秀な技術力、その民族にしか持ち得ないような特殊な才能で、同じ性質を持った国と見なされるケースも多いのであるが、今回見たような「ひとつのライブの作り方」(維持費、人件費)を見ても、「人間らしい生き方」に対して両者間には決定的に違う何かがある。

日本人で仕事をバリバリするヒトなら、23:00に帰宅して、一人寂しく食事をとるのは極めてフツーなのだろうが、ドイツ人(多分、他の民族も)は(一般的に)残業しない。遅くとも19:00くらいには帰宅、平日でも家族全員での晩餐をゆっくりと囲むのがフツーのようだ。それが日本人にとって(僕も)、ちょっと「え?」と違和感を感じさせるケースもある。確かに、3時間もだらだらとおしゃべりしながらの晩餐は、非効率的、非経済的と見えるかもしれない。だが、もし30分で食事をして、他の山積するタスクをこなしたとして、でも眠るときに「非人間的な生活を送っていること」で心傷つき、2時間30分、眠れなかったとしよう。それならば、3時間だらだら、楽しい、一見無駄で無意味に見える時間を過ごしたほうが、いい。非常に健康的で効率的だ。少なくとも、僕にとっては、それがいい。本当にその時間が欲しい。




3年前の3月11日、あの地震が発生したときは、家に戻れなかった(参照)。政府に対してデモするとか、”なんやかんや”アピールするとか、はっきりそんなの、どうでもいい。ほとんどの共同体で、日本人の悪しき悪循環プロセス(みんな幸せになろうとしているのに、それらの営みが協調せず意図しなかった計算狂いを発生させ、みんなを不幸にして、人間らしくない生活を強要する)は回るだろうから。

せめて人間らしく生きること、そして人間らしく死ぬこととは、なんであるか、徹底的に内省する一日にしよう。
(つづく)

【連載7】ロカビリー

オダギリジョーが演じる五代雄介(仮面ライダークウガ)は2000の特技を持つ。仮面ライダークウガの第一話は、迷子になって泣いている男の子に、1番目に習得した彼の特技が”笑顔”であることを話しながら、雄介がなだめるシーンから始まった(と思う)。

仮面ライダーが大好きな僕も、2000の特技を持ちたいと思って生きている。

楽器の演奏(コントラバス、龍笛、少し三線、ギター)、語学(ドイツ語、スペイン語、英語、コンピュータ言語)、絵を描くこと、その他諸々は、2000の特技の一要素に過ぎない。

コントラバス。弓でクラッシック曲も弾くし、ジャズやロックでは指弾き(ピチカート)するし、タンゴの特殊な奏法も、まあ、なんとくマスターしている。とりわけ、僕が自慢できるのは、ロカビリーやブルーグラスで使われるスラップ奏法ができること。最近、エステルのバンドでもそれを使った。



スラップ奏法を学んだ経緯。1989年秋、東大駒場でのテント劇団公演をめぐる学生逮捕事件のあと、 西新宿にある中古レコード店、VINYL JAPANでバイトを始めた。 初月給を持って大久保のクロサワ楽器店に行き、十万円台のスズキのコントラバスを買った。 生まれて初めて買ったコントラバスだ。 買ったあと担いで電車で渋谷まで、渋谷から徒歩で駒場寮まで帰ったが、 初めての「コントラバス運び」に、 ひどく疲れた記憶がある。

VINYL JAPANのバイトの同僚に、 早稲田大学に通いつつサイコビリーバンドでウッドベースを弾いているサトルがいた。 髪は黄色で若干モヒカンでトサカのように立っている。

ウッドベースを買ったことを伝えると、 「あ~見に行きて~弾かせて!」 というので、バイト上がりに駒場寮まで来てもらい、 スラップ奏法を教えてもらった。 弦を引っ張り指板の反響音を裏に入れ、 さらに返した手の平で裏打ちを入れる。

課題曲はエルビス・プレスリーの「BLUE MOON OF KENTUCKY」。 指弾き、弓弾きに加えて、
スラップ奏法がその日から僕の練習メニューに加わった。

それからしばしばサトルは駒場寮に遊びにきた。翌年の春、駒場寮にサトルが泊まった朝、「なんかバイト行きたくね~」 と二人して仮病でずる休みして、彼の車で高尾山まで朝からドライブした。 二人ともウッドベースを持って。 軽トラの荷台に載せてロープで固定して。

高尾駅の背後にある小山にウッドベースを担いで登った。
「なんか山頂で弾いたら、 いい音出るんじゃね?」
と、二人で阿呆なこと考えて、 実践。

重いコントラバスを担いで、ケモノ道しかないような山に登るのは、いばらのみちだった。
疲れたら、サトルが尋ねる。
「さて、ここでクイズです。
 安易に進めるコースと、
 進むのが困難なコース、
 二つがあったとします。
 あなたはどっちを選びますか??」

「断然、困難なコース!!」
と私が答える。
二人とも俄然やる気になり、 駆け足で山を登る。

次に疲れたら、私が尋ねる。
「え~、ここでクイズです。
 誰でも通れる道と、
 いばらのみちが、
 あったとします。
 どっちを選びますか??」

「いばらのみち!!」
とサトルが答える。
二人とも俄然やる気になり、駆け足で山を登る。
阿呆である。

山頂について、二人で
「BLUE MOON OF KENTUCKY」
をスラップ奏法で弾き、歌った。
山頂で鳴らしたウッドベースの音は
想像したほどは正直、よくなかったが、
山を降りて食べた蕎麦は
うまかった。
(つづく)

【連載6】心配せずに今は闘え

「僕には帰れる場所がある」の”場所”の作りかたを考えてみる。

このブログは、2005年、アメーバブログが人気ブログに賞金を払っていた時代、4回連続で音楽ジャンルでの1位をとり、また全体ランキングでも何度か(回数の記憶は不正確)「鬼嫁日記」などとともにトップ10にランクインしたことがあり、その賞金合計金額はそこそこ、いいお小遣いとなった。2005年10月、JASRACと「コード進行の分析、タブ譜の掲載は著作権侵害ではないか?」という点でもめたことがあり、閉鎖の危機にさらされた。それは当時、そこそこ話題となり、週刊誌やシンポジウムなどでも採り上げられた。「牧歌組合 JASRAC」でググってみてください。何度も言いますが、侵害ではない、という勝訴結果をいただいております。

そしてそのブログは、つげ義春の「李さん一家」ではないが、話題性は廃れても今もなおここに残っていて、寂しいときの僕が帰れる場所になっている。酒を飲みながら、駄文を書き、寂しさを紛らわす、という行為は、僕にとっての最大の精神安定剤なのだろう。


45年生きてきているが、何度か鬱になっている。何もやる気が起こらなくなり、ただボケーっと生きている時間が、何度か訪れる。

一回目の鬱は、1995年4月。20代の僕には、「東大を中退してミュージシャンを選んだ!、だから成功しなければならない!」みたいな変な気負いがあった。多分その邪心が演奏にも影響していて、おそらくたいした演奏はできなかったのだが、自分のバンドと音楽活動が思うように行かないことにいつも悩んでいた。その悩みは、神戸の大震災が起こり、「自分の故郷が大変な状況だというのに、こんな大変なときだというのに、僕はへたくそなベースを練習していていいのだろうか?」という悩みに変わって、僕は一時期ベースを弾くことができなくなった。主夫生活を送ったのだが、松永師匠のアドバイスと、夜中おっぱいを求めても見つからなくて泣き叫ぶ長男の泣き顔をみて、社会復帰しようと思った。

二回目の鬱は、2006年1月。丁度、このブログでのJASRACとの闘いが収束したあとだった。32歳からは基本的にサラリーマン生活を送っているのだが、まあ客観的に見ても、主観的にも、僕は”フツー”のサラリーマンではないと、自覚している。常にいつも”副業”というか、「他にやりたいこと」(それは、常に音楽!、あるいは恋心)を抱えて生きて行くしか、多分できない人間なので、サラリーマンとして生きる上で、それは度々、他の本当に真面目な人々とのあいだで、問題を引き起こす。当時勤めていた会社の上司から、露骨にいじめられ、何もやる気がなくなってしまった。多分、僕みたいな部下を持った上司なら、そうなるのは仕方ないだろうとは思っている。これは宿命なのだろう。このときは、「盲腸の除去」を口実とした二週間ほどの休暇と入院と、「音楽療法」を勉強してバッハのカンタータを何回も聴き、ベースでも歌うこと、そして転職に向けて資格取得の勉強に打ち込むことで、社会復帰できた。ブログの賞金は、入院費として消えた。「まあ、この時間を作るために、あなたは文章書いてたのね」と元妻は言った。

三回目の鬱は、2009年1月ごろ。ヤフーで管理職をやっていたのだが、生え抜きではなく、「外からやってきた」管理職だったので、色々悩んだ。10日間ほど会社に行けなくなった。前回の学習から、バッハのカンタータを何回も聴き、演奏することと、そして、上司2人(Aさんと、Hさん)が素晴らしい人だった(二回目の鬱と同じように、まずヒトを扱き落してやろう、みたいな人間ではなかった。ヒトの気持ちを汲もう、共感しよう、とする人たちだった)こと、同僚のYとNがほぼカバーしてくれたこと(本当に感謝してます)で、何となく社会復帰できた。

四回目の鬱は、2012年6月。ドイツに旅行をしたあと、二回目の鬱と同じような状況が起きた。「ドイツで生活しよう」という夢で社会復帰できた。

五回目の鬱は、2013年10月。「マサタカ保育園」の崩壊のとき。この連載での登場人物、ガブリエル、ドウナ、タトー、エステル、ユーディットたちとの出会いと、バンド活動で、おそらく社会復帰できている(?)。

まあ、このようにまとめてみると、鬱発生の間隔がだんだん狭くなってきていることに気づく。社会復帰しているのか、していないのか、僕はスレスレなところを生きて行くしかないのかもしれない。


復帰。「僕には帰れる場所があるんだ」という場所に戻ること。さて、2005年のJASRACとの紛争のときのことを、最近思い出した。
そのときのページからの引用。http://ameblo.jp/dukkiedukkie/entry-10006301940.html







ps. 「くれぐれも無理はなさらないで」という言葉に、一番感謝しています。
この問題が起きたとき一番初めに心配したのが、
「問題を大きくして社会問題になったら、会社を首になるのでは?」ということでした。
家族のことを思い、争わずに閉鎖を考えました。

しかし、女房曰く。「あんた、あのままでいいの? このまま引き下がっても、
また他で同じことをたぶんやるだろう。心配せずに今は闘え」と。

くれぐれも無理はしませんが、できる限りやります。


僕は脚が速い。高校、大学のとき「逃げ足の小塚」と呼ばれていたこともある。しつこそうに見えて、結構、「ああ、駄目だ、苦しい」と思ったら即座に身を引く、諦めが超速いタイプである。動物占いは、チーターだ。JASRACとの闘争のときも、日本中から支援したいというメールやコメントが来ているというのに、「ああ、もう楽しくない、やーめた」と、家でボケーっと酒を飲み、ドラマをみていた。そんなときに降ってきた言葉。
「あんた、あのままでいいの? このまま引き下がっても、また他で同じことをたぶんやるだろう。心配せずに今は闘え」という言葉の成果として、僕にとって、このブログが「僕の帰れる場所」になった。


引き下がらず、また他で同じ失敗をしないために闘うことで、戻れる場所ができるのかもしれない。
(つづく)







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【連載5】八日目の蝉

【連載5】八日目の蝉

2008年から2011年まで、ヤフーに勤めていた時代、部長だった。「ドラマ部」の部長。正式な役職の部長ではない。あしからず。


社内wikiに専用ページを設置して、毎四半期(=クール)ごとに、新規スタートするテレビドラマをリスティング、部員ごとに「どのドラマが面白いか」を期初にBidding・期中に中間総括・期末にフィードバックして評点、コメントする。殺伐とした開発現場における一抹の清涼剤としてのテレビ・ドラマの話題。そうそうたるメンバーが参加していた。とても楽しかった。だが、この”ドラマ部”は、部員の転職や、まあ他にも色んなことがあって2011年秋、空中分解した。というか僕はそこから逃げざるを得ない運命だった。楽しい時間と場所はいつも長く続いてくれない。社内wikiのページは、もう削除されてしまったのだろうか。誰か教えてください。

2005年に当ブログでJASRACと”紛争”めいたことをしたこともあって(楽曲コード分析&タブ譜採譜は一応、合法と認められています。2005年~2009年の当ブログ参照)、僕は意外と「著作権」にうるさい。好きなミュージシャンの動画を「好きだから」という理由でアップロードしたり、所謂”ファン・アップロード”のテレビドラマや映画をお金も払わずに平気で見ているひとを見ると、「え?」と疑ってしまう。本当に好きなのだったら、その作者とコミュニケーションをとり、ちゃんと対価を払ったうえで使わせてもらう、などの敬意と礼儀を払うべき。いくらお金がないときでも、敬意と礼儀の点で貧乏になったら人間おしまいだ。

偉そうなことを言った直後に恐縮だが、ベルリンに来てからどうしても見直したくなって見たテレビドラマがある。それは、2010年にNHKの火10(火曜日22:00枠)で放映された、角田光代原作、檀れい&北乃きい主演の『八日目の蝉』。「ドラマ部」で僕はこのドラマにS(pecial)評点した。2013年秋、「マサタカ保育園」が空中分解して、隣の子供たちにもうドイツの絵本の読聞かせができなくなったとき、よその子供を誘拐した女・希和子の3年半の逃亡劇の心境をもっとよく理解できるのではないかと思ったので、どうしても見直したくなって、見た。見直すたび、「あと何度逃げれば、神様は私を許してくれるのだろうか」という希和子の言葉、そして、ドラマ主題歌、城南海が歌う沖縄民謡「童神」に、さめざめと共感して泣く。

タンゴバンドのことばかり書いてきたが、僕は主に他に二つ音楽活動をベルリンで行っている。
そのひとつは、「日本の音楽&文化をドイツの老人ホームにお届けする」というプロジェクト。親友大竹くんの進言で、バンド名は「サディスティック巫女バンド」にしようと思っているが、老人ホームに暮らす、ドイツの淑女たちに、バンド名をドイツ語でどのように説明すればいいか、いま頭を悩ませている。2014年2月からこの活動を始めた。詳細はおいおいしつこく書かせてもらうとして、
そこで僕は雅楽の龍笛と、沖縄の三線(また急に始めてます)と、ヤフー時代に”画伯”と呼ばれていたお墨付きの描画技術を駆使した紙芝居作成を担当している。紙芝居では、漢字が象形している意味をドイツ語で解説している、しようと思っている。この「サディスティック巫女バンド」で「童神」をレパートリーとしていて、龍笛か三線で演奏している。老人ホームに暮らす、ドイツの淑女たちから「この曲は本当にいいわね~」と言われると、とても嬉しい。子供に対する親の気持ちは、どこでも同じだ。共鳴と共感がなんであるか、しみじみと実感できる時間と場所。

もうひとつのバンドは、ドイツの女の子バンド、「エステル・シュバルツロック」。スペイン語、スウェーデン語、英語、ドイツ語で曲を書き、ピアノとギターで弾き語るエステルのバンドで、
僕はコントラバスと龍笛を演奏している。ある日、リハーサルの後の帰り道、バイオリン奏者のユーディットが訊ねた。「ドイツ語のUrlalbを意味する、日本の漢字の『休』って、ヒトが木にもたれかかって休んでいる風景を描いてるんでしょ? ものすごく論理的ね」。「え?あ、ああーーーーーーーーーーーーーーーーそうそう」と答えたが、自分の頭の中での彼女のドイツ語から日本語アタマへの翻訳、そのこと(「休」の象形文字としての成り立ち)を思い出すために、シンコパで弓を持ち替える以上の時間、約8000ミリ秒が僕には必要だった。オッサンになったものだ。彼女は日本語を勉強している。「日本の音楽とかダンスってどんな感じ?」とユーディットが訊くので「ハイサイおじさん」を聴かせ、踊ってみせた。そのあとバンド内で「ハイサイおじさん」がブームになり、ユーディットと一緒に「ハイサイおじさん」をレバートリーにすることを提案中。ガブリエルと同じく、ユーディットとは目線と音だけで会話ができる。というか、彼女には”ボケ”の才能があり、ライブやリハーサルでの演奏中、音や目線でボケてこっちを爆笑させようとしてくる。笑いをこらえるのにいつも一生懸命。一緒に演奏できて本当に楽しい。8001ミリ秒目の蝉。そして、数字の単位に「本」とか「枚」とか、別々の単位をつけることがスゴい、とユーディットは日本人に敬意を払ってくれる。


3月8日(土)、クロイツベルクの「Cam-ba-la-che」でライブがありますので、お越しいただけるヒトは何卒。未完成の種田ンス。

はるか離れた故郷、日本を思うとき、それを過去としてフラッシュバックするだけでなく、こういった友達たちと一緒に、共感しあい、敬意を払い合い、何か新しいものを創り出しながら、暮らしていきたい。「ドラマ部」も「マサタカ保育園」も空中分解してしまったが、今にとって僕の居心地がよく、大切な場所は、これら3つのバンド(「エステル・シュバルツロック」、「サディスティック巫女バンド」、そしてガブリエルやタトーとのタンゴバンド「ラ・ベルリンガ」)だ。

あと何度逃げれば、神様は私を許してくれるのだろうか、といつも思うが、僕は命がけでこの場所を守りたい。もう「予想どおりの失敗」はしないつもりだが、またするかもしれない。いずれにせよ、「僕には帰れる場所があるんだ」(アムロの台詞から引用)と感じていたい。
(つづく)






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【連載4】種田ンスとシンコパ

【連載4】種田ンスとシンコパ

今、猛烈に奏法を改造中だ。打法ではなく。

アルゼンチン・タンゴのコントラバス奏法に「シンコパ」という奏法がある。まあ、「シンコペーション」と同じ意味で、(フィラデルフィアソウルや、ローウェル・ジョージのシンコペーション感覚に近いものを個人的に僕は感じるのだが、)4拍子1小節目内の1拍めを弓で力強く8分音譜で弾き、2拍目の裏(弱拍)と3拍を指でこれも力強く弾き、4拍目の裏ではまた弓で。これを、暫くの間繰り返す。ガブリエルが言うように、タンゴは単純な音楽ではない。

なんでこんな特殊な奏法が生まれたのか、日本でよく考えたことがあったが、ヨーロッパで暮らし始めたまにタンゴのダンスホールとかに行くと、なんとなく答えがわかった。タンゴのダンスホールはとてもうるさい。踊る大勢の人々の足音で。とくに、ハイヒールと床がぶつかり合うノイズ。その騒音のなかで、くっきりとしたリズムを人々に聴かせ、気持ちよく踊ってもらうためには、ビートの要であるコントラバス奏者は、ミュートビート(弱拍)を巧みに活用した、時に奇異な際立つドラスティックな音を出す必要がある。ジョン・コルトレーンのカルテットで、世界一うるさいドラマー、エルヴィン・ジョーンズの隣で、フラメンコ奏法など特異なベース奏法を編み出した、ジミー・ギャリソンと同じ発想。


指だけで弾いた場合、弓だけで弾いた場合とくらべて、シンコパの弓&指の忙しない持ち替えが作るビートは、くっきりしたビートを創り出す。そして、その弓弾きと指弾きの切り替えを瞬時で行わなければならない。速いテンポの曲で、♩=120以上だとして、一拍が500ミリ秒、8分音符ひとつは、250ミリ秒。アタックの効いた音を出すための”白紙の体勢”を準備するコンタクト時間(これが多分一番大事)も作らなければならないから、おそらく、100ミリ秒以内に弓弾きと指弾きの切り替えを行う必要がある。

僕が日本にいたときのコントラバスの師匠は2人とも、(教えてもらった当時、)ドイツ式の弓を使っていた。そのため僕もドイツ式で約24年間弾いてきたのだが、ガブリエルとタトーのバンドに参加してリハーサルを繰り返すなか、ドイツ式の弓でタンゴ、とくにシンコパを演奏することに限界を感じた。そして遅ればせながら、2013年の12月のクリスマスの時期くらいから、フランス式の弓に持ち替えることに決めた。

たかが、コントラバスの弓のドイツ式からフランス式への持ち替え、ではない。楽器に対する体の構え方、楽器の持ち方、立ち方、全ての改造が必要になった。年末年始の休みは全てその練習に充てた。だが、2014年1月、タンゴバンドのコントラバス奏者としてデビューしたとき、フランス式奏法に変えてからたった2週間くらい。そのライブを見にきてくれた、アルゼンチンの国立オーケストラのコントラバス奏者である、エルナン・マイサさんが僕にフランス式の弓の使い方と、タンゴにおける奏法を教えてくれることになった。

エルナンは素晴らしい音楽家で、その素晴らしさの詳細はおいおいしつこく書かせてもらうとして、レッスンで一番感銘した言葉が、「力が、カラダの中心だけに向かうようにする」というものだった。体はリラックスして力まず、約30グラムの腕の自然落下する重力を活用して、水が漏れないようにその力を”いい音”のど真ん中、おなかのど真ん中に叩き込む。それを、歩いているときも、ボケーっとしているときもいつも考えて生活してみて、とエルナンは最高の笑顔で教えてくれた。松永さんの教えに近い。僕はいつも師匠に恵まれる。

さて、そのカラダを作るため、練習しながら僕は色々考え、試行錯誤した。自分のカラダをよく知らなければならない。僕は両足がかなり細く、そこそこ長い。だが、頭は大きく、胸板は厚い。そして腕は長く、未来少年コナンに出てきたロボットみたいなカラダをしている。だから、よく歩いているときもフラフラと上体の揺れで動いているような歩き方をするし、ベースを弾いているときも、よく上体がフラフラと揺れている。不安定な上体のため「ここで強い音で決めたろ!」と思ったときに、空振りしてしまうことが25年コントラバスを弾いてきて、しばしばあった。

この自分の悪いクセを、どうしたら克服できるだろうか?

何となく自宅で日本の野球選手のWikipediaをボケーっと読んでいたとき、元中日ドラゴンズ、横浜ベイスターズで活躍した種田仁選手の打法を、久しぶりに見た。これかも。上体を低くしてガニマタでベースを構えたら、無駄な上体の揺れが制限され、空振りする確率が減る。そもそも非力な僕は、重いものを持つとき、ガニマタで腰を入れないと持てない。ヨーロッパ人のどしっとした下半身や、チャールス・ミンガスの巨体とは全く異なったカラダを、日本人の僕は持っている。そういえば、柔道や空手をやるときも、腰は必ず落とすし、雅楽で袴をはいていたときなど、腰を落とし、上体を揺らさないようにしないと歩けないし、笛もいい音が出ない。その姿勢がもしかしたら、日本人の力を出すための基本体勢なのかもしれない。

そのあと、演奏後「マサ、かなりリズムが変わったな」と言ってもらえる機会が増えた。
(つづく)








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45歳からの海外音楽活動【連載3】失恋等、失意の処方箋としてのタンゴ

【連載3】失恋等、失意の処方箋としてのタンゴ

タンゴは”情熱の音楽”とよく言われる。実際タンゴを演奏していると、リハーサルとか、ライブ後のダメ出しとかで、「Passionが足りない!」という言葉が、重要なキーワードになる。だから、"情熱"と、"情熱"のゼロ状態である、"失意"について今日は考察する。ミュージシャンのためだけでなく、現代に生きる僕たちの”鬱”と闘うために。

アルゼンチン人のギター奏者、ガブリエルと、バンドネオン奏者、タトーとリハーサルに入ったのは、ガブリエルとカフェ・リリックで出会ってから10日くらい過ぎた2013年10月末日のことだった。最初の課題曲は、タンゴのスタンダード曲「Mal de amores」。ドイツ語だとLiebeskummer、英語だとheartbreak、日本語だと”失恋”。

タンゴの演奏はワンパターンではない。スタンダードだからといって、いつも同じ演奏でいいわけではない。世の中で既に演奏され、録音されたバージョンも全て、コード進行の解釈、楽曲の演出の仕方など、細部にわたりかなり異なっている。ジャズのスタンダード曲以上に難しい。一緒に演奏する、他の演奏者のクセや、フィーリング、フレージングを考慮しながら、一緒に自分たちなりのアレンジ、そしてグルーヴ、音楽を作り上げていく。

「世界中には、そのヒトのコピーがもう一人必ずいる」とよく言われるが、僕が一緒に演奏した音楽家のなかで言うと、ガブリエルは性格、プレイともに、小島麻由美やピラニアンズの塚本功くんにかなり近い。そのときの気分やフィーリングで、突如、想定もしていないようなフレーズやテンション・ノートを、いきなり笑顔で繰り出してくる。所謂、音楽の天才だ。これを受け止め、最適なベースラインを返し、お互い”ニヤリ”とするときに、何とも言えない幸せを感じる。ほとんどのケースで僕は失敗するのだが、このような天才肌のバンド仲間と、音と目線だけで会話しているときが一番、気持ちいい。マジで、言葉なんて、いらない。言葉の無い世界で暮らしたい。

その失恋曲、「Mal de amores」で、ガブリエルは「マサ(=
僕のこと)、ソロを取れ」と言う。それから、曲の半ばで、コントラバスの弓弾きのソロをいつも弾いている。そのメロディーを弾くとき、いつも僕は、失意というものが何であるかに想いを馳せて、情熱たっぷりに演奏しようと試みる。何かを失うということ、失った気持ち、喪失感とは何であるか?

僕には東京に住んでいる2人の子供がいる。男の子。長男はもう成人している。幼かったころ、長男は、願いがかなわなかったとき、買いたいものが手に入らないとき、もっと見たいモノが見れないとき、青梅鉄道公園で、鉄道模型のショーが終わって、電車の電源が切れたとき、いつもよく「もっと!、もっと!!」と泣き叫んだものだが、次男はかなりサッパリした奴で、願いがかなわなかったとき、ケロッと
「無いね」
と一言いって諦め、別のことをし始めていた。この点ではおそらく長男は、僕に似てて、次男は元妻に似ているのだろう。

元妻はよく僕に言っていた。あなたは、結構色々なものを持っているのに、自分が持っているものに満足しないから、いつも不幸だと自分で思ってしまうのだと。自分が今まで手に入れたもの、身につけたもの、持っているものだけを大切にして満足すれば、もっと幸せに生きれるのだと。ゼロであることは、マイナスではないと。自分のプラスだけ見て行けば、いいのだと。

タンゴでは、男女が至近距離で抱き合って踊る。リア充な二人のための音楽と思っているヒトもいるかもしれないが、アルゼンチンでタンゴが生まれた理由はそうではない。ゴールドラッシュ時代のアメリカ西部と同じく、移民だらけのアルゼンチンでは、男女の比率が5:1以上で、ほとんどの男性が女性と結婚することが出来なかった。ほとんどの男性が結婚すること無く、子孫を残すこと無く死んで行った。そういった男性にとって、ほぼ唯一と言っていい、女性と出会うチャンスが、タンゴを踊ることだった。お互いの肌にふれ、呼吸を感じ、目線で会話する、約3分間(=曲が流れる時間)のチャンス。その、チャンスを活かし、上手く行ったものもいるだろうし、チャンスを活かせず失意のどん底に至ったものもいるだろう。チャンスが「無いね」とケロッとしていたヒトもいただろうし、そうでなかったヒトもいただろう。

そういった環境で失恋曲が沢山書かれた。演奏された。”失恋”を演奏することは、そういった歴史、いや、過去の歴史だけではなく、永遠に流れる脈々たる失意の歴史を、深く感じることじゃないかと、僕は弾きながら思う。

自分の息子から教わった、
「無いね」
という言葉は、昨年からベルリンに住み様々な失意感を体験した僕にとって、自分を慰めたり、現実を受け容れるために、大切なフレーズ(ひとりごと)となった。手に入れたいもの。手に入らないもの。持っているもの。不足を感じるということ。それを、一瞬で、受け容れ、諦めるということ。

一方的に好きだったヒトが想いを受け止めてくれなくても、拒絶されたとしても、それを「無いね」の一言で一瞬で流して、威風堂々として生きて行きたい。たぶん、タンゴを演奏するということは、失意の処方をするということだ。ほとんどの場合、「上手くできなくてすみません、マチルダさん」(byセイラさん)だが。僕はそれを上手く演奏したいのである。
(つづく)








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