僕と日本とドイツと | 牧歌組合~45歳からの海外ミュージシャン生活:世界ツアーに向けて~

僕と日本とドイツと

 ロックダウン状況下、ライブ活動は無くほぼ自宅作業しかしていないと、最近、家族/中高・大学の同窓生たち/IT企業、音楽関係の元仲間との、オンライン上での不意の再会が多い。で、日本に住んでる友達とオンライン通話していて、無神経に「なんで、緊急事態宣言が出たのに、満員電車とかで通勤してるの? 不思議でしかたない。金が無くても生きれるけど、ウイルスで死んだらもう働けない。一斉サボタージュとかできんもんなの? Fridays for Future的なノリで 」とか言ってしまって、「ドイツは勝ち組だけどね、日本はそうはいかない。満員電車に乗ってる人たちも、物凄い辛い気持ちだと思うよー」などと答えが来ると、「ああ、ごめんなさい。海外に逃げてきて7年も経つ自分は、あの日本の独特な微妙な感覚を失ってしまったのだろう。多分、ドイツに住んでる自分がそういうことを言うのは、星野源『うちで踊ろう』に動画を合わせた阿部首相と同じレベルで、今、日本で本当に苦しんでいる人たちの感情を逆撫でするだけかもしれない」と思う。”海外脱出者”の日本人が言うことは、多分全部、「大きなお世話」なんだろうな、と被害妄想的に感じてしまう。

 そんな感じで、ネガティヴ思考をコントロール出来づらい。この間、やっぱり、普通な感覚じゃない。夜も2,3時間おきに目が覚めて、ニュースを読んでしまう。ドイツのニュースよりも、日本のニュースが気になる。ベルリンに7年住んできても、やっぱり、愛おしい故郷。気になってしかたない。今のドイツと日本の違いってなんだろう? 今、僕は何をすればいいんだろう? どうせ答えは見つからないだろうが、駄文を書くことで、自分に向き合い、落ち着きたい。
 

 

▼僕の日本での人生要約


 個人ブログなので、支離滅裂に、個人的な体験を書かせてもらうが、自分は悪運だけ強い。


 自分の略歴をざっくり言うと、神戸でエリート教育施され、大学時代に新左翼活動(ノンセクト)、大学中退、東京での売れないミュージシャン生活(別に、ドイツでも大して売れてるわけじゃないが)、しかし既に子持ちで貧乏生活、エロビデオ屋の店長、IT企業のサラリーマンとなるものの6社以上転職繰り返す、離婚後、ドイツ人女性に惚れてドイツへ「脱出」、そのままバンド活動が多くて居続けている、って感じ。

 老いた母親から口癖のように、「あんた! ちゃんと、せなあかんて!!」と51歳になっても、未だに言われ続けるような人生を歩んでいるのだが、人生の転機にはいつも大きな事件が起こり、そのとき、自分は何故か比較的大きな被害を絶対に受けていない。

 大学時代(1989年)、アングラテント劇団(風の旅団)の公演を東大駒場キャンパスで行おうとしたところ、機動隊が駒場キャンパスを取り囲む事件が起き、知人友人5人が逮捕されたのが、本来その劇団公演の主催者である自分は逮捕されなかった。まあこれは公安警察の「絶対、逮捕する!」リストに僕の名前が入っているという情報があって、学友たちから、「小塚は、絶対、前面に出るな!」と言われていた。だから、駒場を機動隊が取り囲んだ日は、後ろのほうでブラブラしていた。学友たちが守ってくれたんだ、と感謝している。あのときはありがとう。この事件の後、大学に居るのが嫌になって中退してしまうのだが、その劇団関連の人脈でIT関連の仕事を貰ったり、バンドでベース奏者として演奏する機会を貰ったりして、その後の僕の人生の下地を作ってくれた。

 27歳のとき(1995年)、子持ちの売れないミュージシャンとしての生活が行き詰まり、ITエンジニアとしてサラリーマンになる以前、エロビデオ販売チェーンとして1990年代有名だった、ビデオ安売王の一店舗の店長して働いていた。当時はオウム事件などがあって、色んな仕事の面接に行っても「灘校東大で27歳、フリーターって、やっぱり、変な人なんじゃあないかと、疑わざるをえませんねえー」などと直接言われてお断りされることが十回くらいあったんじゃないだろうか。まあ、変な人であることは否定しないが、苦しい財布から元妻が出してくれた金で買った紳士服の青山の安いスーツを着て、公園で泣いた。で、唯一の働き口が、新聞広告(多摩地方のアイデムだったと思う)で見つけたビデオ安売王で、時給700円のバイトとして働き始め→社員→店長になった。精神分析を応用したエロビデオ商品の精緻なジャンル分け、売り上げ情報のデータベース化/分析、そして全アルバイトは漫画家/アニメーター志望限定で採用、ビデオのおすすめPOPをイラスト付きで描いて貰っていた(あらゆる画材は会社持ち)。その同人誌コミュニティのノリで、エロビデオ屋業界、東京ナンバーワンの売り上げをライバル店と争った。だが、ライバル店のチクリによって(これは逮捕者に警察が語っている)「猥褻物陳列罪容疑」としてオーナー、店長、チーフアルバイトの3人が逮捕された。だが、自分はその寸前に、店長職を離れ、別店舗に飛ばされていたので、逮捕を免れた(その後彼らは、無罪放免と一応なった。もちろん所謂、”無修正”を販売していたわけではないのだが、「猥褻物」の定義は法律的にも、非常に曖昧なのである)。子供が二人いるので、前歴のある父にはならなくて、よかった。そしてその後、面接で「東京でナンバーワン売り上げのビデオ屋を作った。このデータ分析技術で必ず御社をその業界でナンバーワンにする」と豪語して、普通なら高卒を雇わないソフトバンクグループに採用された(一応、その会社で、ログ解析システムをフルスクラッチで開発した)。

 数々のIT企業でのサラリーマン体験を経て、2012年、離婚後の東京一人暮らしの寂しさから、およびフリーランスとして契約していた日本の企業が、「ドイツに行っても、リモート開発をして欲しい」と言ってくれたので、経済的な不安なく、ドイツに移住することができた。そこでベーシストとして再起できて、そして、このコロナ危機のなかでも、他の国から教訓とされ羨ましがられるような環境のなかで、ドイツという国に感謝することができた。

 音楽にせよ、ITせよ、人間関係にせよ、面白くなくなったり嫌になったら、悩まず自分の感性に逆らわず、すぐ辞める、って決めているので、転職歴など比較的多い。僕はどの集団からも異端として扱われているようなコンプレックスもある。ずっと一箇所(職業、コミュニティ、国など)に留まり続けている人たちが、本当は羨ましい。そこには、僕が絶対に持っていない、深く長い心の繋がりがあると思う。それで「やっぱり、俺は何か人間として決定的に間違っているのか?」と悩む機会もあるにはあるが、「まあ、最低限、悪運強く生きてきている。それでいいじゃないか」と思っている。というか、そう思わないと生きていけない。

 

 

▼音楽は辞めれない、もし辞めたとしても何度でも甦る、ということ

 コントラバス奏者としてのコンサートは現在のところ、5月末までは全てキャンセルされている。正直、ステージに立てないことは辛い。そんなときは、音楽を辞めようとした出来事を思い出す。

 1995年、音楽の収入だけで生きてたのだが、子供も大きくなってきて、流石に生活に困っていた。同年、阪神大震災が起きた。そしてオウムによる地下鉄サリン事件が発生した。自分が幼少時代、青春時代を過ごした神戸の街が、壊れて燃えている。市役所職員の弟は東灘区で家を失った人々救済で家にも戻れない。高校時代の同級生からオウム幹部が出たり、大学時代の住処であった駒場寮の廃寮が決まったりしていた。

 

「なんか、自分にとってとっても大切で、自分を形成してきた故郷の街、学校、駒場寮などが次々と、何かしら壊れそうになってる。そんな大変なときに、僕は、コントラバスを練習している。ずっと練習してきても、上手くならないのに。妻や子供を養えもしないのに。一体、僕は何をしているんだ? こんな、美しくない音を出して!!」と、ベースを弾けなくなってしまった。ライブ活動も辞めた。師匠のレッスンにも行かなくなり、コントラバスも売り払ってしまった。でも、サラリーマンになったとき、最初のボーナスで買ったのは、また、コントラバスだった。弾けないとき、本当に寂しかった。

 2011年、東日本大震災が起きたときは、ヤフーで働いていた。当時会社があった東京ミッドタウンの揺れも激しかったし、震災対応でのいくつかの大変な仕事もあった。東京では一定時間、停電することもあった。停電中は、テレワークもできないので、真っ暗闇のなかでコントラバスを練習していた。暗闇のなかの方が、音に集中できると思った。なんだか、心がとても落ち着いた。このとき、「ああ、先の震災で僕は弾くのを辞めてしまったけど、こうやってまた弾いているんだ。弾くと、心が落ち着くからな」と思った。


▼そこそこしんどい海外生活

 一応、独り身の外国人として外国に滞在していると、いろんな大変なことがある。ベースを持って街を歩いていると「Drei Chinesen mit dem Kontrabass!! (コントラバスを持った3人の中国人♪〜ドイツの童謡)」と酔っ払いや子供たちから揶揄われるのは当たりまえ。まー、フツーに差別と言えなくもないだろうが、平均して、1ヶ月に2,3回は揶揄われる。「残念!コントラバスを持った1人の日本人じゃ、中国人2人足らんわ、差別するな、ボケ!」って、答えたら奴らは笑う。

 自営業者として、ドイツでの最初の確定申告は大変だった。大量な専門用語頻出の、納税用の書類を辞書首っぴきで理解するまで、かかりきりで1週間くらいかかった。ドイツ人の友人に聞いたりすると、「いや、俺もわからんよ。税理士に頼む方がええんちゃう?」的な反応で、「ああ、ドイツ人でも知らんのか」と安堵したが、税理士からいくら請求されるかも分からないので、自力で一生懸命書き終えた。でもちゃんとできてるか不安で、税理士に書類チェックをお願いしたら、「ああ、君は税理士いらないね。何も直さなかった。ほぼ完璧」と言われ、でも100ユーロ取られたのだが、まあ、確定申告は、とにかく、大変。ドイツの確定申告乗り越えハードルは、僕にとってとても辛かった。

 その他、コンサートとか、パーティーとか、ドイツ人しかいないような環境にいるとき、外国人もいることに気を使ってくれる人なんてまずいないので、これでもかとばっかりにベラベラと流暢なドイツ語を聞かされると、やっぱり未だに疎外感を感じざるを得ない。どこまでいっても、外国人は、本国人にとってお客さん、マイノリティーでしかないのです、悲しいけど、これが「海外逃亡勝ち組」の現実なのよね。ドイツ人と、喧嘩をするくらいの語学力は付いてきてると思うが、やはり感情的な喧嘩が始まると、絶対に負ける、というか、埋めようのないコミュニケーション・ギャップを、ただただ痛感することもしばしば。日本で暮らすより、会話、対話、交渉、議論、論争において、数十倍、神経が擦り切れる。そして、明確で論理的に語ることが求められる。日本人特有の、主語や客体を明言しない、曖昧に言ってもなんとなく理解してもらえる、なんて甘さはここでは絶対通用しない。

 そんなこんなで、何度か「あー、もうベルリン暮らし辛いー、日本に帰ろう」とか思ったりすることもあったのだが、いつも考えあぐねて最後には、「でも、日本で、一日2-3時間、コントラバスを練習できるところに住むのは不可能だよな。ライブ活動できる日本の都会の住居、狭いし、密集してるし。部屋が広くて、壁は厚くて、思いきり練習できるから、やっぱドイツがいいや。それに、いっぱいライブできて、ビール飲み放題だし。日本みたいに、演奏して自腹、ってこと絶対ないし。一部の固定客だけじゃなくて、ドイツではもっと幅広いお客さんに聴いてもらえるし」って考えて、結局、居続けている。


 ドイツで生きててよかった。音楽を続けていてよかった。そして、僕は美しい故郷(日本)を持っていてよかった、僕にも帰れるところがあるんだ、と思いたい。

 

 

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