45歳からの海外音楽活動【連載1】バンドメンバーとの出会い | 牧歌組合~45歳からの海外ミュージシャン生活:世界ツアーに向けて~

45歳からの海外音楽活動【連載1】バンドメンバーとの出会い

【連載1】バンドメンバーとの出会い

今のバンド仲間と出会ったのは、2013年10月のある日、ドイツ・ベルリンで、5時間ぶっ続けで泣いた夜の翌日、プレンツラウアーベルクのカフェ・リリックでのことだった。

同時住んでいたパッペルアレーのアパートで、ひとり布団の中で、ただただ5時間声をあげて泣き続けた。一枚の壁を隔てて住んでいた彼女から届いたメールを眺めながら。長文のドイツ語で、「おそらくこの言葉を、他人から言われたら最悪だ、存在の全否定だ、僕は自殺するかもしれない」と思っていた言葉が、ほぼほぼ、すべて書かれていた。もし、ヒトの心が心臓なのだとしたら、既に傷つき、10本以上の矢が刺され、膿みと血しぶきが吹き出している箇所めがけて、さらに執拗に焼き鏝を叩き込んでくるような言葉の群。文法構造の美しさを誇るドイツ語は、こんなとき本当に残酷な言語であると思った。「krass」「totaler böse」「vielleicht Freunde」。文脈にもよるが、日本語にするとしたら「キモい」「あんた、マジで馬鹿」「友達じゃない」という言葉。まさかこんな言葉が彼女の口から僕に対して出てくるとは、300%思っていなかった。

2011年末、僕は離婚して家族を失った。その後、あるベルリン在住の女性ミュージシャンの音楽を知った。彼女の音楽は孤独な僕の心境を癒してくれた。彼女が憧れとなった。2012年の春、ベルリンに旅行して、彼女と知り合うことになった。その年の冬、僕はベルリンに住み始めた。2013年の夏、彼女から「隣の部屋が空いたから住まない?」という知らせがあり、僕はそこに引っ越した。ほぼ毎日、彼女の子供たちに絵本を読聞かせしたり、寿司やソーメンを御馳走したり、楽しい時間を過ごした。僕は人生のゴールに着いたかもしれないと思っていた。ソレ以外の人間関係は全て捨ててもよかった。ある日、彼女に恋していたことを打ち明けた。そのあと、彼女は明らかに僕を避けるようになった。そのあとに届いた彼女からのメール。

僕は、「何かそれ以上の関係」を求めたわけではないつもりだった。そもそもそんなことは無理だと思っていた。「親切なお隣の日本人」の距離感のままで、毎夕方、仕事の後に「Masataka保育園」を運営して、この幸せな時間が過ぎて行けばいいと思っていた。でも、そうとは受け止めてもらえなかった。ものすごい寂しさを感じて、僕は泣き続けた。ベルリンに住むと決めてから、一生懸命勉強したドイツ語。自分の心を破壊するような、これらの言葉を理解するためだけに、ドイツ語を勉強してきたのかと感じた。彼女が来日したときに頑張ってご馳走した一人1万円以上の懐石料理、ベルリンでやった寿司パーティー、ソーメン料理講座、彼女の子供たちへのプレゼント、果たされなかったいくつかの彼女との約束。自分として大切にしていた思い出と希望が全て、あっけなく1つのボタンで一瞬でdeleteされていくような感じだった。僕は、憧れていたヒトにただただ嫌われるために、ここにノコノコやってきたのだ。本当にキモくて、馬鹿で、最低だ。誰にもこの話は出来ないと思った。

だが。しかし。5時間泣き続けていると、なんだか「これも別に悪くはないなあ」と感じる自分がいた。思えば、5時間も一人で45歳の男性が、泣き続けられるシチュエーションって、そうざらに転がっているわけではない。「この貴重な経験をするために、僕はベルリンに来たのかもしれない」と考えると、別にそれでもいいと思った。その運命を静かに受け止めるしかないと思った。この痛んだ心と一緒に生きて行くしかないと思った。その夜は、久々に熟睡することができた。

自宅でプログラマとしての仕事をしているが、次の日もプログラミングしている最中、何度か涙がボロボロと流れ落ちた。外に仕事に出かけていると、絶対に泣きながら仕事はできないだろう。僕は、はじめて、フリーランスとして自宅勤務で仕事させていただけていることに、心から感謝した。


夜、ドイツ語語学学校の友達、ロシア人のアントンとカフェ・リリックに行く約束だった。そのカフェでは、フランスのシャンソン、クレツマー音楽、ジプシー・ジャズ、ギリシャ音楽、そしてアルゼンチン・タンゴなど、所謂ワールドミュージックを演奏するミュージシャン、バンドのライブが毎日行われている。その日は、アルゼンチン・タンゴを演奏する「トリオ・コラソン・デ・タンゴ」(タンゴの心、の意味)の演奏が行われた。

ガブリエルのギター、アナラウラのフルートとドウナの歌。3人のメンバー全員がタンゴの本場、アルゼンチン出身。ガブリエルとドウナは25年間ベルリンに在住し、様々なコンサートホール、ダンスホール、ライブハウスでタンゴを演奏してきていた。ガブリエルのギターから、次から次へと繰り出されてくるタンゴの熱すぎるリズムが、痛んだ僕の心に力を吹き込んでくれるようだった。ハスキーヴォイスのドウナのヴォーカルと、アナラウラの美しいフルートの音色は、タンゴの歌詞に描かれた”痛んだ心”を、美しいカタルシスへと昇華していくようだった。

コンサートが終わったあと、僕はガブリエルとドウナに、ものすごく感動したこと、コントラバスを弾いていること、日本でタンゴを演奏していたコントラバス奏者からタンゴの奏法を習ったことがあること、タンゴバンドでベースが弾ければそれ以上の幸せは無いこと、を猛烈にアピールした。ピアソラ、プグリエーセを中心に、いくつかのタンゴの曲を弾いたことがあることを、ベースラインを歌いながら、エア・ベースを演奏しながら、アピールした。

そしてその日、僕は、ガブリエルが結成したいと考えていたタンゴバンドにコントラバス奏者として参加することになった。
(つづく)






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